016


「おっはよー。キク、侑」
「おはよー。ご機嫌だね、桂」
 侑が笑って言う。
「そりゃ明日から夏休みだからな」
「あっそうそう桂、バイトよろしくね」
「ああ、まかせとけ!もう準備万端だから」
 そう、明日からは夏休み!リゾートバイト!そしてその後には最大のお楽しみイベントが――

「失敗する可能性のあるものは、失敗する」
 俺の浮かれた気持ちに水を注すようにキクが不穏なセリフを投下する。
「な、なんだよキク」
「うちにあった本」
 キクが呼んでいた本の背表紙をこちらに見せる。
「……マーフィーの法則?」
 頷きページをめくるキク。
「中でも俺が一番好きなのはコレだな」
 キクは一旦言葉を切ると、形良い唇の端に笑みを浮かべて言う。
「絶好のチャンスは最悪のタイミングでやってくる」
「いや、そんな――」
 笑い飛ばそうとした俺の背後から、
「夏目君……」
 と、意外な声がかかる。
 驚いて振り返ると、教室では決して自分からは話しかけてこないあやめが、泣きそうな顔で立っている。
「パソコンが壊れちゃった……」

「ああそれ多分ハードディスクのクラッシュだ。ハードディスク交換すれば直るよ」
 あやめの説明を聞いたキクが事も無げに言う。
「ハードディスクを交換……って事はデータはどうなるの?」
「データの復旧は多分無理だろうな。バックアップ取ってた?」
「取ってない……」
 悲しげに首を振るあやめ。
「重要なデータが入ってたの?」
 キクの問いに、
「写真とか小説とメールとか……」
 うつむいたまま答えるあやめ。
 ああそれは辛いよな……ってメールも!?
 それはつまり、もしかして――
「あの、あやめちゃん、俺が書いた小説って……」
 恐る恐る聞いてみる。
「多分消えちゃったと思う……。ごめん、また送ってくれる?」
「いや、アレもう消しちゃった……」
「えっ……」
「だってまさかこんな事になるなんて思ってなかったし……」
「何もめてるの?桂、小説書いてるの?」
 侑が無邪気に尋ねてくる。
「いや、なんでもない、なんでもないっ!あやめちゃん、詳しい話は昼休みに聞くから」
「うん、わかった……」
 席に戻っていくあやめの後姿を見送りながら、
「最悪だ……」
 と呟く俺を見て、キクが不思議そうに言う。
「なんで、桂がショック受けてるんだ?」



 昼休みの屋上、俺は書いた小説を完全消去した事をあやめちゃんに伝える。
「……送信メールとか残ってないの?」
「それも全て綺麗に消去した」
「そっか……」
「まさかこのタイミングであやめちゃんのパソコンが壊れるとは思ってなくて」
 そんなこと予知できるわけがない。
「あの……もう一度書いてくれないかな……」
 は?何言ってるんだ?
 俺がどれだけ苦労してアレを書いたと思ってるんだ。
「いや、でも俺明日から住み込みでバイトだし。ってかあやめちゃん海、来れるよね?」
 俺の問いに困ったような表情を浮かべるあやめ。
「小説が書けないと……」
 おい、ちょっと待て。話が違うぞ。
 文句を言いたいのを抑え、
「……じゃさ、夏休み明けにもう一度書くから。それじゃダメ?」
 と提案してみる。
 最大限の譲歩だ。はっきり言ってあんなもの2度と書きたくないのだが。
「でも日にち予告しちゃったし、小説がUPされるまで寝ないで待ってるって言ってくれてる人もいて……」
 そんな個人的な理由、知るかよ。
「ってかいうかさ……」
 あやめの顔を真剣に見据える。
「あやめちゃんは、俺とそのサイトの読者とどっちが大切なわけ?」
「それは……」
 言い淀むあやめ。
 おい、答えられねえのか?
 心が急速に冷えてゆくのを感じる。
「もういいよ。悪いけどこれ以上付き合いきれない」
 自分のものとは思えないほどの冷たい口調。
 あやめの肩が微かに震えたような気がしたが、フォローする気も起きない。
 そのまま出口に向かうと、ドアを開け、階段を降りる。
 背後で鉄のドアが閉まる。  その音はまるで2人の関係を断ち切るかのように重く響いた。



 HR終了後、俺はあやめちゃんに声をかけることなくさっさと教室を出る。
 あやめちゃんと一緒じゃないなら桐生に声をかける必要もないしな。
 そのまま廊下を歩いていると、背後から女子達のはしゃいだ声が聞こえてくる。
「桐生君、一緒に帰ろうよ」
 ああ、チャンス到来ってわけね。
 何の気なしに振り返ってみると女子に囲まれた桐生が、すがるような表情でこちらを見つめている。
 そんな雨の日に捨てられた子犬みたいな目で見るなよ……。
 ああっ、もう仕方ないなぁ。
「おい桐生、 帰るぞ!」
 声をかける。
 待っているのも面倒なのでそのまま歩いていると、追いついてきた桐生が背後を気にしながらおずおずと尋ねる。
「……城ヶ崎さんは?」
「知るかよ」
 知るもんか。
 そのまま無言で歩き続ける。今日に限ってはこの沈黙が有り難い。

「じゃあな」
 別れ際、桐生に声をかける。
「……うん」
「よい夏休みを」
 何気なく付け加えた後、自分の言った言葉に苦笑いする。
 よい夏休みを、か……。
 俺の夏休みはよい夏休みにはなりそうもないけどな。

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